菅義偉首相の長男・正剛氏らが行ったとされる、総務省幹部への違法接待問題が大きな問題となっている「東北新社」。
その接待にも出席し、責任をとって辞任した元社長・二宮清隆氏に代わり、中島信也(なかじま しんや)副社長が昇格する形で新社長へと就任されました。
スキンヘッドでインパクトのある出で立ちをしているこちらの中島信也さんとはどのような人物なのでしょうか。
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実はCMディレクターとして業界では非常に有名な方で、その作品を見ると必ず「あっ、見たことある!」というCMがたくさんあるはずです。
そこで、こちらの記事では、東北新社の新たな社長・中島信也さんについて、その経歴や過去に手掛けてきた有名なCM作品をご紹介いたします。
【東北新社】中島信也社長の経歴と手掛けたCM作品がすごい!
中島信也社長のプロフィール&経歴!
- 1959年1月15日: 福岡県八女郡黒木町(現: 八女市)生まれ
- 1977年3月: 大阪府立豊中高等学校卒業
- 1978年: すいどーばた美術学院で一浪の期間を過ごす
- 1978年4月: 武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科入学
- 1982年3月: 武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業
- 1982年2月: 『東北新社』入社
- 1983年8月: テレビCMディレクターとしてデビュー (映像関係の受賞歴多数)
- 1996年: 映画監督としてウルトラマンゼアスを制作
- 2010年: 矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜 (映画監督)
- 2019年6月: 『東北新社』副社長に就任
- 2021年2月: 『東北新社』社長へ昇格
//その他//
- 武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科・デザイン情報学科客員教授
- 映像テクノアカデミア講師
- 広告学校講師
- 宣伝会議コピーライター養成講座講師など
中島信也さんは、東北新社に入社して1983年にテレビCMのディレクターとしてデビューして以来、第一線で活躍。
35年以上にも渡ってCMを作り続けている方です。
一般の人にとってはあまり聞き慣れないこの「テレビCMディレクター」という職業ですが、中島信也さんは以下のように説明しています。
映画で言えば、映画監督。舞台で言えば演出家ですね。
(テレビCMの)企画がございまして、その企画をですね、演出いたしまして、
実際のCMにしていくという係を35年間ずっとやってます。
もう36年目に入ってるんですけどもね。
そして、制作のペースについては、1年に20〜30本ということで、これまでに1000本以上のCMを作成されてきたそうです。
一部ですが、中島信也さんの作品及び映像に関する賞の受賞歴を見てみましょう。
受賞歴 (代表的なものを一部紹介)
- 1992年: 全日本シーエム放送連盟賞シリーズ大賞「サントリー 白角」
- 1993年: カンヌ国際広告祭グランプリ「日清食品:カップヌードル hungry ?シリーズ」
- 2001年: アジア太平洋広告祭グランプリ「ミドリ安全:分煙システム 『禁煙亡命者』」
- 2001年: 国際放送賞グランプリ「松下電器 ナショナルのあかり」
- 2003年: CMフェスティバル総務大臣賞「サントリー:燃焼系アミノ式 グッパイ、運動」
- 2005年: ニューヨークアートディレクターズクラブ賞グランプリ 「サントリー 伊右衛門」
- 2021年: AirPAY「オダギリジョーシリーズ」、その他多数
CMディレクターとして活躍する中島信也さん。
中島さんが手がけたCMはどれもくすっと笑えるようなものや、一度見たら脳の中で何度もリピートしてまう中毒性が高い作品ばかり、
その象徴とも言えるのが、「日清食品:カップヌードル hungry ?シリーズ」や『燃焼系アミノ式の「グッパイ、運動。シリーズ」』でしょう。
【日清食品:カップヌードル hungry ?シリーズ】
【燃焼系アミノ式「グッパイ、運動。シリーズ」】
少し前のCMにはなりますが、大阪で育った中島信也さんらしさが爆発しており、日本国外で高い評価を獲得したこのCMは、CMフェスティバル総務大臣賞を受賞しただけでなく、CM総合研究所発表のCM好感度ランキング(2004年)で2位以下に大差をつけての1位となりました。
誰も一度は目にしたことがあるCMですよね!
その他にも短い映像の中に、ストーリーが凝縮された「サントリー 伊右衛門」のCMや、
近年では、オダギリジョーさんが店員役をして、斜めの角度からキャッシュレス決済を宣伝する「AirPAY」のCMなど。
今のようにYouTubeなどがない時代、ほとんどの動画視聴はTVが主体だった中で、多くの人の目を惹きつけ共感を生んだ作品を多く生み出していることがよく分かりますよね。
まだまだ他にも中島信也さんがディレクションをしたCMはたくさんありますので、興味があったらYouTubeなどで探してみても面白いでしょう。
その他、中島信也さんの現在は、後進の育成にも注力。
宣伝会議のコピーライター養成講座やCMプランニング講座、そして武蔵野美術大学で客員教授を務めるなど、若手育成のために幅広く活躍されています。
【東北新社】中島信也社長の東北新社入社までの道のりを紹介!
福岡生まれ大阪育ちの江戸っ子と言われている中島信也社長。
そんな彼の幼少期から現在の東北新社社長に就任するまでの経緯を簡単にご紹介しておきましょう。
小中まで成績が良かったという中島信也さんは、そのまま進学校の高校である大阪府立豊中高校に進学します。
しかし、「勉強する方法をきちんと身に付けていなかった」と本人が語っているように、そこから成績を落としてしまいます。
【若かった頃の中島信也社長】
『このままでは大学に行かれへん』と諦めかけていたら、父に『実は中島家には絵の才能がある。美大を受けたらどうだ』と勧められ、
それで1浪して武蔵美に入ったんです。東京芸大も受けましたが、残念ながら落ちました」(by 中島信也)
この語っているように、父親の勧めで美大を目指していたそうです。
実は中島信也さんの父親は博報堂に務めており、大阪の営業部門の本部長さんをしていた時代もあったのだとか。
結局、東京芸大に行くことはなかった中島さんですが、1年間美術の専門学校に通う浪人生活を経て、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に入学します。
中島信也が学生から東北新社に入るまで!
【武蔵野美術大学時代の中島信也社長】
学生時代はロックと山登りと恋愛に明け暮れていたという中島信也さん。
もともとはミュージシャンになりたくて、東北新社への入社は考えてなかったそうです。
中島信也さん本人は、以下のように当時を振り返っています。
美大予備校の講師のアルバイトでそこそこ稼いでいたので、就職するつもりもなかったんです。しかし借りがあった友だちに『(就職試験を)受けろ』と言われ、行きがかり上、広告代理店のデザイナー職を受けたら、とんとん拍子に進んで。とある事情で、結局その会社は選考途中で辞退せざるを得なかったんですが、お断りに行くと、僕のプレゼンテーションを見てくれた人から『中島君はCMに進むべきだ』と言われましてね。紹介されて、東北新社に入ったわけです。何をしている会社かもよくわからずに(笑)」(ちなみに↑に出てくる辞退した会社が『博報堂』で父親が社員なのが選考の途中でバレたそうです。)
もともと広告時代胡散臭いものだと思っていたため、自分がCM制作会社である『東北新社』に入社したことは “交通事故に遭ったようなもの”。とまでいう中島信也さんですが、東北新社入社後は、使いっぱしりをされるプロダクションマネージャーの仕事を経た後、ディレクターの部署に移ったことが中島さんの大きな転機となります。
ここで、試行錯誤を繰り返しながら売れっ子ディレクターとしてヒットCMを連発していった中島信也さん。
デジタル技術を駆使した娯楽性の高いCMで数々の賞を受賞すると共に、会社でも副社長を務めるにまでなります。
そして、今回東北新社が行っていた総務省幹部への違法接待を受けて、不本意な形ではあったかもしれませんが、社長の退任。
副社長であった中島信也さんが昇格することで新社長の誕生となりました。
「死ぬまで人の顔色を伺い続ける男」と自称するほど、相手の立場になって考え、コミュニケーション能力を磨いてきたという中島信也社長。
今後は、CMディレクターとしてだけではなく、会社の指揮官としてもその腕が問われることになりそうですね。
終わりに
【中島信也社長が東北新社で手掛けてきた主な作品(平成時代)】
今回の記事では、東北新社の中島信也社長について、彼の経歴とこれまでに手掛けてきた有名なCM作品などをご紹介してきました。
【「飲み会を断らない女」山田真貴子内閣広報官の夫についてはこちらから】
CM制作の世界で輝かしい成果を上げてきた中島信也社長ですが、新社長になった以上、
まずは信頼回復が中島社長に求められている任務なのかもしれません。
今後の東北新社がどんな会社になっていくのか。引き続き注目していきたいと思います。